追手門学院大学経営学部 学部長 水野浩児
昭和43(1968)年生まれ
追手門学院大学 経営学部教授・学部長
これまで奈良・三碓陸上クラブで小学生の指導にあたるなど
陸上競技に熱い情熱を注ぐ
ラジオ大阪「水野浩児の月曜情報スタジオ」出演
2017年7月~毎週月曜日放送
第1弾、追手門学院大学経営学部 学部長 水野浩児様によるコラム
[その24]令和は多様性の時代
10月29日・30日の2日間にわたり、追手門学院大学では学園祭が開催されました。一部コンテンツはオンライン形式を採用するものの、実に3年ぶりに対面形式での実施となりました。学生たちも「取り戻せ、青春時代!」をテーマに久々に学校中至るところで活気あふれる様子でした。にぎやかなキャンパスを五感で楽しむことができた2日間だったとおもいます。
しかし、楽しそうな学生たちの様子に微笑ましさを覚えるものの、何か違和感を覚える自分がいました。全員マスクをつけて接客していたり、食べ歩きすることはなく、模擬店で買ってから、人混みから離れたところで控えめに飲食をする様子に「なんだか前までと違う気がするなぁ・・・楽しそうだけど。」とおもってしまいました。
前とは違う。これは昔から幾度となく追手門学院大学の学園祭を見ている私だから思う感想です。いまを全力で楽しもうとしている彼らからは同じ言葉はきっと出てこないでしょう。違うからといって不正解ではないですし、なんだか悶々としてしまいました。過去のように戻りきれていないことに哀愁のようなものを覚えもしたのですが、たどり着いた答えは意外なものでした。
新型コロナウイルスの感染が拡大してから、「コロナ前」というセリフを皆さんも数え切れないほど耳にしたとおもいます。よく考えてください。そのセリフは「前」を知っている人からしか出ない言葉です。極端な話になるかもしれませんが、幼稚園児や小学生からしたら、幼稚園や学校にマスクをつけていくのは当たり前かもしれませんし、給食はみんなと離れて静かに食べることも当然のこととして受け入れられているかもしれません。
そんな様子をみて「かわいそう」とおもってしまうことは、我々「大人のエゴ」かもしれない、と私はおもいました。と同時に、我々は改めなければいけないような気がしてきました。彼らはそれを受け止めるしかなく、その「いま」を全力で生きているのですから、それを憐れむのは憐れむ側の大人が「変わっていない」ことの表れなのかもしれません。
少し視点を変えますが「多様性」を認める、という話でも同じようなことがいえます。SDGsが注目されてからというもの、世間は国籍や性別、年齢、価値観など様々な多様性(Diversity)を受け入れて、持続可能な社会を作っていこうとしています。職場でオールジェンダートイレの設置が進んでいることなどは、わかりやすい取り組みの1つとしてよく話題になるようになりました。
多様性を認める、ということはやや厳しく、かつ、現実的な目線で言い換えると、「マジョリティ側が変わること」を意味する、と個人的にはとらえています。これまで男女別だったトイレが共用になることで、視線を気にしたり、個室しか用意されなくなるのが当たり前になります。慣れるまではきっとストレスを感じるでしょう。でも、このストレスをいままで感じてきた方々が現にいるのです。これを身をもって認識し、分かち合うことが多様性を認める、ということなのではないでしょうか。
コロナ禍によって世界は大きく変わりました。少し過激的に表現するとしたら、コロナ前の時代は「終わった」といったほうが、この流れではわかりやすいかもしれません。SDGsや多様性が進んだのも新しい時代が「始まった」からといったほうが、ここではしっくりくるかもしれません。
私も普段から発言しないようにかなり気をつけていますが、「昔は○○だった」という話をする人は周りにいませんか?単なる思い出話であればいいのですが、昔と今を比較して、今を否定するような口ぶりをしてしまう人はかなり注意したほうがいいでしょう。それこそ多様性を「受け入れられない」人の予備軍になりかねないからです。
経験が多ければ多いほど、様々な視点を持ち合わせているため、アドバイスを求められたり、助言をする機会に恵まれます。そのときに「昔はこうだったのに」と、過去にすがるような言葉を発してしまう人は、無意識に過去と比較をして、いまより過去を良いものとして捉えている傾向が強く出ます。
冒頭に私が感じた学園祭への違和感はまさにこれでしょう。もちろん場面によってはそれが正解に近いこともあるでしょうが、今後のことを考えると非常によくない発想だなと反省しました。どうしても「変わらない安心感」に人はすがってしまいます。が、もういまはそんな時代ではないのです。
ある意味、昔のことに固執して考えてしまう発想は「時代劇でよくある風景」として、娯楽のひとつにでもならないといけないのかもしれません。「昔はそんなふうに考えるのが当たり前だったなんて、信じられないね。おかしいね。」と笑って言われるのが当たり前になる社会になれば、令和の時代は生きやすいのかもしれません。
とはいえ、いますぐ自分の価値観をアップデートするのは至難の業です。でも、その現実から目をそらすことはやってはならないでしょう。見つめ方は人それぞれかもしれませんが、我々には「走っている」時間がありますよね!
タイムを意識して走ったり、ただただ無心に走ったりと、走っている際の頭の中は人それぞれ異なるでしょうが、たまには自分と向き合う時間としてランを活用することも楽しみ方のひとつかもしれません。確実に一人で没入できる時間の使い方のひとつとして、個人的にはオススメします。
朝晩の冷え込みも厳しい季節が近づいてきました。大学界隈では駅伝でホットになりつつありますが、しっかり準備運動やストレッチに時間をかけて、カラダを温めてから怪我のないランニングに勤しみましょう!
10月に入り、おそらくすべての大学において後期の授業が開始されました。
私が所属する追手門学院大学でも10月3日から後期の授業がはじまり、長かった夏休みから明けた学生たちも「日常」に戸惑いながら、学生生活を謳歌しようとする姿を見て微笑ましく感じています。
少し真面目なお話をすると、一般的に教育では「理論」と「実践」の往復が大事と言われています。大学で言えば、講義科目で専門知識を身につけ、ゼミナール科目で修得した知識を生かした実践的なトレーニングを積むこと、といった流れです。その流れをくむことで、足りない知識を確認し、それを補う講義を受け、また実践する……といった具合に、座学と実学を行ったり来たりしてより高みを目指すことになります。大学のカリキュラムもそのように組まれていることが多い印象です。
かつて私が学生のころ、とりわけ法律の分野では「理論」を追究することが是とされていました。この法律をどのように解釈することが正しいのか、そういった学びを重ねることが当時は当たり前でした。もちろん、ゼミナール科目もありましたが、いまのように実践的な学習というより、さらに理論に対する知識を深めるような時間になっていたように記憶しています。
一方的に「理論」だけを聞かされていると「何のために勉強しているのか?」がわからなくなってしまいます。結果、勉強を苦痛に感じてしまうことにもつながるでしょう。もしかしたら、小中学生が勉強そのものに対する意味を問うことが多いのも、「理論」側の要素が強い印象を抱いているからかもしれません。
他方、スポーツの世界では上手くなるためにテクニックやスキルを磨く練習を繰り返します。その結果、ドリブルが上手になったり、シュートテクニックが身についたり、走るスピードが上がったり、より遠くに飛べるようになったりします。
スポーツの世界では勉強とは逆で、なぜその練習が必要なのか、どうしてこの順番で練習しなければならないのか、といった「理論」に触れる機会が少なかったような気がします。
すると、ポテンシャルなどの要因もあるかもしれませんが、スキルやテクニックは次第に頭打ちになり、練習を重ねても成長が見込めず、最悪の場合、競技そのものが「つまらない」と感じてしまうことがあるかもしれません。
このように「理論」と「実践」のうち、一方だけに触れ続けることは、何であれ壁にぶつかってしまうケースが多い、と言えそうです。逆に、双方に触れることで「面白み」を感じることが増えていくような気がします。
そしてその面白みを知っている人は共通して、心の底から楽しんでいる姿が印象的に映ります。
今シーズン偉大な記録を打ち立てた二刀流の大谷選手や村神様こと東京ヤクルトスワローズの村上選手も、プレー中の真剣な眼差しもさることながら、野球の楽しさを体現している表情が印象的でした。
彼らは世界や日本を代表する卓越した能力を持ちながら、それを身につける過程で良い生き方を学んできたのでしょう。本能をくすぶるような経験を積み重ねてきたからこそ、結果を残しながらスポーツをすることの喜びを表現できるプロフェッショナルでもあると感じます。
これは日々の仕事やランにも当てはめられそうです。コミュニケーションスキルが高かったり、PCスキルが高かったりする社員よりも、その仕事・業務が好きでたまらない人間のほうが、最終的に結果を残すことがあります。元々スタミナがあったり、かつて長距離ランナーとして記録を所持していたことがある人より、いま走ることを目一杯楽しめる人のほうが、幸せなランナー生活を送ることができるでしょう。
皆さんも日々のランニングから刺激を受け、本能をくすぶり、心の底から楽しめるランを積み重ねられるといいですね。朝晩の冷えが体に堪える季節になってきました。準備運動は入念に、怪我なく健康な走りを続けていきましょう!
YouTube、アマゾンプライム、Netflix、Spotify・・・・・・。
月額料金を支払うことで動画・音楽配信サービスなどを思う存分満喫することができる、いわゆるサブスク。
皆さんは普段、どんなサブスクを利用していますか?
コロナ禍の影響により、瞬く間に我々の生活に浸透した様々なサブスクですが、最近気になる新聞記事を目にしました。日本でアマゾンプライムを利用するには月額約500円程度の利用料を支払う必要があります。Netflixだと約1000円。では、アメリカやイギリスなど海外ではどのような料金設定になっているか、ご存知ですか?
円安や物価高などの影響もあるのかもしれませんが、実はアメリカでアマゾンプライムのサービスを受けようとすると、日本円にして月額約2000円を支払う必要があります。なんと4倍近くの価格差があります。
最近、諸外国と比べても「物価の安い国」として認識し始められている日本ですが、まさか動画・音楽の配信サービスにまで影響が及んでいるのは意外でした。
引き合いに出す事例として正解かどうかわかりませんが、比較の対象が「クルマ」だった場合、いかがでしょうか?世界の「トヨタ」車は諸外国と比べて、どれほどの価値があるのでしょうか。
少し考えてみたいのが、動画・音楽配信サービスという「無形」のものにも経済の原理が働くのか、ということです。
ただ、私は大学教員ですが、経済学者ではないので、専門的な知識は持ち合わせてなく、ここでは皆さんと同じ目線、一般ユーザーとして、ふとした疑問として考えたい、というスタンスであることを先に断っておきます。
提供するものが同じサービスなのに価格が違う。もちろん各国の経済状況や物価指数が異なることは重々承知のうえですが、私にはその「サービスを享受する側の価値」定義に違いがあるように感じてしまいました。
国民がどういったものに関心があるのか。どういう文化が国に根付いているのか。
思想とまで言ってしまうと大きな枠組みになってしまいそうですが、我々の日々の生活の中にある風土や背景によって、提供されるサービスに対する価値が違うのかもしれない。
「貧富の差=経済格差」ではなく「モノやサービスの価値=消費者の満足度」といった考え方があるとするならば、こうしたカルチャーやエンターテインメントといったサービスの価値について、深く考えさせられるなぁと思わされてしまいました。単にこじらせているだけなのかもしれませんが。
話題は大きく変わるのですが、先日のことです。
私のゼミ生が、ゼミが始まる前に軽食をとっていたときに「普通に美味しい!」と言いました。
「普通」に「美味しい」・・・・・・?
日本語の使い方として正しい感じがしませんよ・・・・・・ね?
思わず「普通に美味しいってどういう意味や?なんかおかしくないか?」と言ってしまいました。
すると学生から「先生、何言ってるんですか。最高の褒め言葉じゃないですか!」
二度目の豆鉄砲を食らったような衝撃に見舞われました。
が、あらためて考えてみると彼らからすると本当に「最高の褒め言葉」なのかもしれません。
私のゼミ生たちはいわゆるZ世代。生まれたときからインターネットが身近にあり、日々雪崩のように押し寄せてくる大量の情報にもみくちゃにされながら日々を過ごしてきた世代です。
SNSなどで「自分自身」を発信することも当たり前で、特別な存在でなければ「いいね」がもらえない子たちです。
そんな彼らからすると、「ありふれていること=普通」はある意味ものすごく価値のあることなのかもしれません。
他人とは違うことを追求せざるを得なかったからこそ、万人に受けることや共通理解を得られることになにかスペシャリティを感じるのかもしれないなと思わされました。
我々ランナーは記録を求める生き物です。前よりもタイムが縮んだことや走る距離が伸びたことに喜びと快感を覚えます。
3時間以内でマラソンを完走することに必死になる人もいれば、毎日3キロ走り続けることに情熱を燃やす人もいます。怪我から復帰した人なら、一歩一歩踏みしめることができるだけでも感動するでしょう。
動画・音楽配信サービスに求める価値も、美味しさに求める価値も、走ることに対する喜びの求め方も人それぞれです。
何が正しくて、何が間違っているのか。そうした二元論にとらわれず、多様な喜び方に価値を見出したいものですね。
暑い。とにかく暑い。去年、こんなに暑かったかな?
冬は思わないのに・・・夏はなぜか毎年そんなことを考えてしまいます。みなさんはどうですか?
さて、8月に入り世間は夏休みモードに突入しつつあります。
私の務める大学でも前期の授業が終了し、キャンパスには学生の声はからきし。
蝉の声だけが鳴り響いているように思えます。
大学の教員は夏休みの間、授業がないため「夏休みが長くていいですね~」とよく言われます。
が、実は学生の長期休暇期間が一番の繁忙期だったりします。
これまでに溜まっていた原稿・論文の執筆や、研究会・学会への参加など、いわゆる書き入れ時状態になります。
かくいう私も全国を飛び回って研究活動をする傍ら、ゼミ生との活動も多く生じ、とても忙しくしています。
とりわけこの時期の学生との活動は、冷房の効いた教室での勉強ではなく、外に飛び出して実践的な活動をおこなうことが多いです。ひと夏の経験は肌の黒さとともに着実に積み重なっていきます。
肌へのダメージも心配事のひとつですが、年々悩まされるのが「熱中症」です。
最近の夏は本当に怖いです。毎年のように「経験したことのない暑さ」が更新されているような気がします。
ニュースでも20年ぶりの円安、25年ぶりの高水準、ここ30年で初めて・・・などといった表現を目にする機会が増え、類例のない事象が特に今年は頻発している印象です。
それに加えて、コロナウイルスの感染再拡大もいまは重なり、過去の経験やこれまでのノウハウが通じない、先行きの見えない日々を過ごす毎日となっています。
話が脱線してしまいましたが、学生の指導において、この時期に最もリスクを感じるのが熱中症です。
熱中症対策として、水分・塩分の補給は基本中の基本ですが、風通しの良い服装をするなど、カラダに熱がこもらないような工夫も大切になります。
ゼミ生たちと同年代のいわゆるZ世代の人たちは、「Y2K」ファッションがトレンドになっていることもあり、近年と比べても軽装になっているように見受けられます。
しかし、実際に屋外で活動をすると、例年以上に熱中症や熱中症の一歩手前の症状に陥る学生が後をたちません。
医学的な見地までは持ち合わせていないので、専門性や信ぴょう性には欠けるかもしれませんが、彼らから話を聞くと、水分は気をつけて摂取しているものの、日々の食生活に対する気配りがいたっていない様子がうかがえました。
流行のファッションをよりかっこよく、よりうつくしく着こなすためか、ダイエットに励んでいる学生が多いことに気付かされました。
偏った食事や極端な食事制限を行っている学生が熱中症にかかりやすいようにおもいました。
「おしゃれは我慢」という言葉もあったように、いまを生きる彼らが、いま輝くためにダイエットに注力する姿は否定できるものではありません。
いましかできないことを謳歌しようとする姿はむしろ我々世代からしたら直視できないほどまぶしく、うらやましくもあることです。
しかしながら、いまを楽しむにも資本となるカラダが機能しなければ元も子もありません。
一方で、ランナーである皆さんは、環境変化にも柔軟に対応しつつ、常にベストを尽くそうという心がけが強いため体調管理には人一倍気をつけている人が多いでしょう。
基本に忠実で、地に足のついた日々の取り組みは、ある意味「意識の高い」活動なのかもしれません。
いまのベストは何かを追求し、現実をはっきりと見据えたランナーの姿勢は、先行きの見えない世の中の生き方として多くの人のモデルになるのではないでしょうか。
厳しい暑さが続きそうですが、くれぐれも体調管理、特に熱中症へは細心の注意を払いながら
この夏をベストタイムで駆け抜けましょう!
「道」とは誰のためにあるのでしょうか。
哲学やポエムのようなものではなく、先日真剣にそのように考える場面に遭いました。
最近、早朝から堪えるような暑さの日々が続いていたこともあって、その日はランではなくウォーキングをしていました。すると後ろから「ランナーが通ります!!」と厳しく大きな声が響きました。
私は慌てて歩道の端に寄って、数名のランナーが勢いよく通り抜けていく姿を見届けました。早朝の街中を颯爽と駆け抜ける姿に一瞬は感心したものの、ふと我にかえったときに湧き上がる感情は、あまりいいものではありませんでした。
この道は自分たちのためにある、とは言わないものの、その様は「そこのけそこのけ」と言わんばかり。万が一、接触してしまったときのことを考えると、私であれば何とかなっても高齢者の方だとしたら、大事故につながりかねません。
私がウォーキングしていた道は歩行者優先道路や自転車優先道路のようなものではなく、一般的な歩道でした。ランナーも歩行者に含まれるのでしょうが、タイムを計っているからといって、他の歩行者の妨げになるような行為はマナー違反と呼べるかもしれません。
このコラムでもたびたび触れているように、コロナ禍の影響により市民ランナーは増えつつあります。普段の運動不足解消やダイエットなどをきっかけに、ランの楽しさに気づいた人たちが年々増加しています。
その一方で気になってくるのが、こうしたマナーの問題です。先ほどのようなケースでいうと、他の歩行者やランナーを追い越す場合やすれ違う場合はスピードを緩め、安全に、他人を驚かせないように努めることが良しとされています。
ランニングに限らず、スポーツ全般にいえることですが、その競技に真剣に取り組んでいる姿は、プロ・アマ問わずアスリートとしてリスペクトできることです。本人のひたむきさに周囲も感化され、自然と応援したくなってきます。スポーツの素晴らしい要素の1つです。
とはいえ、一生懸命であれば何をしても許されるわけではありません。フェアプレーの精神があるように、相手を思いやりながら全力を尽くすこともスポーツの美しさとされています。
ランナーだけでなく、スポーツに携わる者として、競技中に「高慢」になってはいけません。せっかくの「スポーツの美しさ」が台無しになってしまいます。応援「される側」としても一流であってほしいのです。
自然と応援したくなる選手。そういった選手が本当に「強い」アスリートなのではないか、としみじみ思う今日このごろです。
ところで、どうして街中には「ランナー優先道路」は存在しないのでしょう。大きな公園などでも見かけたことはありません。
ランニングが国民的スポーツになったあかつきには、そうした交通ルールもうまれてくるのでしょうか。
最近、何かしらの「値上げ」に関するニュースが舞い込んできます。冷凍食品やお酒、衣料品、電気・ガス、鉄道運賃など、挙げればキリがないほどたくさんの商品・サービスの価格が上昇しています。
個人的には、ほぼ毎日のようにコーヒーやお茶を購入するため、1回あたりの金額としては微々たるものかもしれませんが、年間で累計すると大きな出費になっているような気がしてきて、購入をためらいそうになってきています。これから暑くなって水分摂取は大切になってくるのに、健康とお財布を天秤にかけてしまう哀れな姿に打ちひしがれてしまいそうです。
相次ぐ「値上げ」の背景には、ロシアによるウクライナ侵攻の影響やいわゆるウッドショック・メタルショックと呼ばれる資源高、円安による輸入品目の値上がりなど様々な要因が絡み合っています。それこそ「脱炭素化」の推進もエネルギー資源への影響は大きく、結果的に「値上げ」につながりました。
「値上げ」された分、収入も増加しているなら、経済成長の傾向にあるとして前向きにとらえられるかもしれませんが、残念ながらそういった様子は実感できません。つまるところ、この「値上げ」を受け入れざるを得ない(他の打開策がない)、というのが本音でしょう。
ところでこの「値上げ」による家計ひっ迫を実感し始めたのはいつ頃からでしょうか?多くの人は今年に入って以降、実感することになったのだろうと推測しています。私を含め、人間は危険や大変さが目の前にきて初めて強く認識する傾向にあります。他の動物と比べ、危機察知能力や将来を予見する知性を持ち合わせているものの、実感するのは「直前」になってからになってしまいがちです。
思い出してもみてください。皆さんは夏休みの宿題をいつやっていましたか?8月のお盆明けぐらいから、泣きながらやった記憶がある人も多いのではないでしょうか。「締切」というものが実感できるようになって初めて鉛筆を手に取らざるを得なくなった、と考えられますね。
夏休みが残り数日というタイミングで、ようやく宿題にとりかかることを「自分事」としてとらえることができたから、アクション(行動)に移すことができた、ともいえます。
私たちは物事や出来事を「自分事」として受け入れることで、思考がはじまり、行動がともなってきます。もっと早くから値上がりすることがわかっていたら先に買いだめしておいたのに……という発想では、「他人事」から「自分事」に切り替えるタイミングが、時すでに遅し。と言えるでしょう。
この「自分事」という着眼点はスポーツ、特に練習の場面でも適用されます。大会の半年前は日々のトレーニングに勤しんでいたものの、大会1ヶ月前になって、弱点を克服する練習の量を増やしたり、強みや特徴は何か再検討してみたりと、「本当だったらもっと前に対策を練ることができたこと」に急にフォーカスしてしまった経験はありませんか?
集団スポーツ、チームスポーツの場合は、個人の課題とチームの課題が重ならないことがよくあるため、なかなか「自分事」としてとらえることが難しいことがあるかもしれません。が、我々ランナーは結果が個人に跳ね返ってくるため「自分事」として認識しやすい傾向にあります。
「運動しないといけないなぁ」「走らなあかんなぁ」とおもっているうちは、まだまだ「自分事」にできていない証拠です。重くなった腰や脚を上げるには、他人事から自分事へのマインドチェンジが肝になります。
この夏のキーワードは「自分事」。私も自身を取り巻く課題をすべて「自分事」と認識し、仕事もランも駆け上がります!
もうひと月も前の話になりますが、千葉ロッテマリーンズに所属する佐々木朗希投手が4月10日にプロ野球史上16人目、28年ぶりの完全試合達成という偉業を成し遂げました。
弱冠20歳の成長著しい若手の活躍に、私を含め、世間は佐々木朗希一色に染まりました。しかも、この大記録にとどまることなく、4月17日の登板では史上初となる2試合連続完全試合まであと3人に迫るピッチングをみせ、再び日本中を驚かせました。
その4月17日、佐々木朗希投手が躍動する時間に、私はガンバ大阪の本拠地であるパナソニックスタジアム吹田(通称:パナスタ)にいました。私が指導する水野ゼミの学生は10年以上前からガンバ大阪がホームゲームをおこなう際に、「エコボランティア活動(SDGs推進活動)」と称し、スタジアム内のゴミの分別作業やスタジアムの美化に努める活動をしています。
私も学生を指導する立場にあるので、この日は終日サッカースタジアムにいて、ガンバ大阪の活躍と学生の活動に目を光らせねばなりませんでした。が、恥ずかしながら、どうしても、佐々木朗希投手の活躍が気になって仕方がありませんでした。
挙げ句の果てには、ちょっとした隙間時間に自分のスマートフォンから「DAZN(ダゾーン)」を開き、佐々木朗希投手の活躍をチェックしてしまいました。示しがつかないので、ここだけの話にさせてください。
私は元々陸上競技に携わっていたり、サッカー部の顧問をするなど、野球とは縁遠い生活をしています。それでも、こうして佐々木朗希投手の活躍が気になってしまうほど、彼の活躍には興味がそそられました。スポーツには魔性のような「魅惑」があるように強く感じた自分がいたことに、少し驚きも感じています。
あえて「魅力」ではなく、「魅惑」と表現したのは、自分の欲求が抑えられなかった反省の意味もあるのですが、それほどまでに掻き立てられてしまうものがある、とあらためて気づいたことに他なりません。
少し話はズレてしまうかもしれませんが、人類の歴史において「偉業」と呼ばれる数々の歴史的な出来事は、得てして「犠牲」をともなうものが多かったようにおもいます。「天下統一」を目指して戦国時代に活躍した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、時代に名を残した武将たちは、いまでも語り継がれる様々な「偉業」を成し遂げた一方で、多くの「犠牲」も払っていたといえます。
輝かしい栄光の裏には厳しい現実もあるものです。しかし、スポーツ、とりわけ個人の記録で勝負する競技では、ネガティブな要素を生むことなく、純粋な「偉業」が生まれ、成し遂げた本人だけではなく、目の当たりにした人、そのニュースを知った人など、多くの人々に勇気と感動を伝染することができます。
もちろん、野球やサッカーのように対戦相手が明確で勝敗がつく場合は、相手側からしたら「歴史的大敗」とも見てとれるかもしれませんが、多くの場合は、「完敗です」と相手の素晴らしさを認める清々しい姿を見ることができ、「偉業」がもたらすピュアな要素に敵味方関係なく「あっぱれ」という気持ちになります。
また、スポーツにおける「偉業」は世界の歴史を塗り替えることに限りません。自分の歴史を塗り替えることもまた「偉業」となり得ます。マラソンランナーであれば共感いただけるとおもいますが、例えば初めてのマラソンでは完走がやっとだったのが、何度も出場し、日々のトレーニングも重ねることで、完走タイムが5時間、4時間、3時間……と記録を更新できたならば、自身の中では何事にも代えがたい「偉業」になります。
世界記録ではなくとも、自分史上最高の記録は「偉業」として家族や仲間に、自身が体感したと同じ、またはそれ以上の感動を与えます。人をどうしようもなく心震わせることができるスポーツの良さを、今回はあえて「魅力」ではなく、「魅惑」と表現させていただきました。
長い人では10連休となった今回のGW。私もふと、ひと息つくことができる時間があって、なんとなしに卒業生と連絡を取ってみたくなり、何人かに電話をし、近況報告を受けました。みんなそろって元気な様子で、それぞれの世界で奮闘しているようでした。彼らにも彼らなりの「偉業」を成し遂げ、より飛躍していってほしいと願うばかりです。
3月は別れの季節とも呼ばれます。私が勤めている追手門学院大学では、3年ぶりに一定の人数を集めた卒業式が開催されました。約2,000人の学生が旅立つことになりましたが、今年も全員を一同に介することは叶いませんでした。新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、午前と午後の2部制がひかれ、参加は卒業生と教職員のみ。卒業生の保護者や在校生のお見送りは控えていただくことになりました。
クラブ活動や課外活動を積極的に行っていた学生たちは学部を超えての交流も盛んだったでしょう。上下のつながりが強いゼミナールでは、先輩の門出を祝いたい後輩もたくさんいたでしょう。「お祝い」したくてもできないもどかしさが今年も残ってしまいましたが、それでも集まっている学生の姿を見ると、微笑ましい気持ちになりました。久しぶりに活気づいた場に身を置いたような気がします。友との束の間の再会を喜び、マスク越しとはいえ、こぼれんばかりの笑顔で記念撮影をしている彼らの様子は感慨深いものがありました。一教員としてできたことはわずかですが、「卒業式」という場を与えることができたことに、ただただ「よかった」とおもいました。
ただ、このときばかりは「マスク」の存在をあらためて強く意識してしまいました。3年前までは当たり前にできていた素顔での集合写真も、いまでは「自粛」の二文字が自然と脳裏をよぎる行為になっていました。教員という立場上、こういった場面でも「注意をしなければならない」のは、なんとも耐え難いものがありました。彼らの学生生活の半分はマスクで素顔を隠しているのが当たり前。せめて、卒業式ぐらい満面の笑みを浮かべた写真で、マスクの思い出を上書きできる機会と環境を与えてあげたかった。そこだけが少し心残りです。
とはいえ、コロナ禍の学生生活を送った彼らに対して「同情の念」を抱くことは、ある意味おこがましいことになります。なぜなら、自分たちが過ごしてきた「当たり前」が、さも「正しい価値観」かのように思い込んで、それを押し付けるような行為にも見えてしまうからです。「俺たちの頃は…」「私たちの時代は…」と過去の価値観にとらわれてしまうほうが、もしかしたら「残念」なのかもしれません。
コロナ禍により日常は一変しました。時代は大きく変わり、新しい価値を見つけ出し、前向きに進んでいくことの「強さ」に大きな価値が見いだせるようになった気がします。変わること、変えることは恥ずかしいことでも怖いことでもありません。変わっていくこと、変わっている「いま」を楽しむことをポジティブにとらえることが令和を生きるポイントかもしれません。
まもなく桜の便りも届きそうです。中には新生活を迎える人もいることでしょう。今度むかえる4月は「出会い」の季節です。新しいことを始めるには絶好の機会です。寒い冬でこわばってしまった重い腰を上げて、春のおとずれを感じながら、少し走ってみませんか。季節の風景、街の空気感もあいまって心地よい風を感じることができますよ。
先日、「コロナ禍が長引いている影響でランニングスクールの会員が増大している」というニュースを目にしました。ランニングブームはまだまだ続いているようですし、これから始める人も少なくありません。ひとりのランナーとしてランニング人口が増えるのは喜ばしいことです。コロナ禍も悪いことばかりではなさそうですね。
球春到来。ランナーの皆さんにとってはあまりピンと来ない言葉かもしれませんが、2月1日はプロ野球12球団が長いシーズンを戦うためキャンプ入りする日で、新しい季節を感じさせる出来事の1つです。
例年、各球団のキャンプ入りがひとしきり報道される中、今年多くのメディアの注目を集めたのは日本ハムファイターズでした。もちろんその中心はBIGBOSSこと新庄監督。オフシーズンである年末年始も自らが広告塔となり、テレビでは見ない日がないほどの活躍ぶりでした。その成果もあって、プロ野球のニュースは新庄一色。狙い通りの注目ぶりで、世間の期待を一身に背負っています。
キャンプ初日もド派手なバイクに乗っての登場や報道陣に対して「のど飴」を配ったり、ランチを提供したりと、話題性だけではなく、気配りの面でも一躍脚光を浴びました。
あまり大々的に報道されませんでしたが、新庄BIGBOSSはキャンプ初日から二軍の練習を視察しています。長いシーズンを戦い抜き、リーグ優勝や日本一を目指すチームの監督は当然ながら主力選手の状態をチェックするため、一軍の練習を中心に視察し、ときには直接的な指導をおこなうなど、主力選手のレベルアップに注力されている様子がよく報道されるなか、彼の行動は関係者にとっては異質とも言えるかもしれません。
新庄BIGBOSSはキャンプ入りする前から「うちは一軍と二軍に分けない、横一線の争いだ」「一軍、二軍とは呼ばずに、BIG軍とBOSS軍と呼んでほしい」などと明言しており、それを見事に体現するように、初日から精力的にBIG軍とBOSS軍双方を等しくチェックしているようでした。
二軍の選手であっても「開幕戦を意識して練習するように」と指導し、練習の意識改革を促している姿が非常に印象的でした。
その二軍の選手の多くは20代前半、いわゆるZ世代と呼ばれる人たちです。私が普段指導している学生ももちろんZ世代と呼ばれる年代ですし、皆さんの勤められる会社に入ってきた新人さんたちも同じくZ世代ですので、普段から接する機会を持っている人も読者の中にはいるのではないでしょうか。
彼らZ世代と呼ばれる若者は、生まれたときからインターネットが普及しており、デジタル・ネイティブとも呼ばれる世代です。スマートフォンを媒介にSNSを中心としたコミュニケーションが日常となっており、非常に高いリテラシーを有しています。また、SNSを通じたコミュニケーションの副産物なのか、他人からどう見られているのか、を強く意識し、「いいね!」を求めてモノより体験に高い価値を感じるなど、我々世代とは「消費」に対する考え方がまるで違います。
また、小さな頃から日本中または世界中とつながる術があったことから、学校や地域といったコミュニティだけでなく、様々なコミュニティに属することが可能でした。そのため、「いろんな人」がいることを実感しており、多様であることを重視したり、所属するコミュニティによって顔を変える多面性を持ち合わせていたりもします。
学生を見ていてもおもうのですが、Z世代は「普通」ではつまらない、と感じる傾向が強くあるようです。自分が「特別」な存在であるために、人とは違った経験を求めたり、人とは異なる自己表現をすることもしばしば目にします。
しかし、彼らはなぜ、突飛なことや目立つようなことを求めるのでしょうか。これは完全に私見ですが、「自分を見てほしい」「個人を認識してほしい」という承認欲求の表れなのではないか、とおもっています。
インターネットの普及により、私達は日々、取捨選択しなければ溺れてしまうほどの「情報」という荒波に揉まれています。これまでは知る由もなかったことが簡単に見聞きできる時代は便利である反面、個性としてキラリと光らなければすぐに埋没してしまい、次第には誰にも認知されなくなります。存在しないのと同義といっては極端かもしれませんが、Z世代である彼らは物心つくころからそういう時代を過ごし、我々が経験したことのない、弱肉強食の世界を生きてきたのかもしれません。
いつか努力が報われたら主人公になれるかもしれない、と信じて生きてきた我々と才能がなければ主人公になれないどころか登場人物にすらなれないかもしれない、という恐怖ともいえる不安と隣合わせに生きてきた彼らでは、考えが合わないのはある意味自然の摂理とも言えるでしょう。
ただ、だからといって「違う生き物だ」と歩み寄ることをやめてしまっては、それこそ未来を見捨てることになります。では、我々は彼らに対して何ができるのか。我々の世代が彼らにできることは「スポットライト」の向きを変え、彼らに光を与えることではないでしょうか?
新庄BIGBOSSは二軍選手に日々、「キミも同じステージに上がっている主役だ!」と言い聞かせるような指導をして、選手の意識を高め、チーム全体の士気を上げています。箱根駅伝で優勝した青山学院大学の原監督も選手の個性に応じて掛ける言葉を変えるなど選手を「個人」として見ていることを強調した指導をされ、あの躍進につながる成果を残したのだとおもいます。
頑張ればいつか報われる。これはこれからも変わらない真理なのでしょう。でも、頑張り方はこれまでとこれからとでは違います。我々の当たり前はもう当たり前ではないのです。
アプリを駆使したコンディション管理、Youtubeの動画を参考にした画期的なトレーニング、スポーツ科学に基づいたシューズの採用など、どれも斬新かつ新鮮で眩しく、最初は受け入れがたいのかもしれません。
でも、勇気を出して一歩踏み出せば、まだまだ自分にも飛躍するチャンスが溢れていることを実感できるかもしれません。いつまでも自分にスポットライトを向けていても、かつてほどの輝きは出したくても出せません。Z世代を邪険にして老いていくオジサンではなく、Z世代とともに成長するイケてるオジサンとして、輝き方を変えていきたいものです。
2022年の箱根駅伝は皆さんもご存知のとおり、青山学院大学の圧勝で幕を閉じました。
今大会は好記録の連発が目立ちました。10年以上記録が塗り替わっていなかった1区と9区の区間新記録に留まらず、総合結果にいたっては2位の順天堂大学に10分以上の差をつけて大会新記録を叩き出す、といった離れ業まで飛び出し、世間を驚かせました。
青山学院大学の原監督の指導にも注目が集まりましたし、もちろん選手たち自身の努力の結晶が実を結んだ結果であることに間違いないですが、それを後押しする「シューズ」がありそうです。
ここ数年で、箱根駅伝が飛躍的に高速レースになってきている背景に、ナイキの「厚底シューズ」の存在があります。2019年大会頃からナイキの「厚底シューズ」を選択する選手が増え始め、2021年の前回大会では、実に95%もの選手がナイキのシューズを身に着けていたそうです。
総合優勝した青山学院大学も、昨年度はユニフォームの契約がアディダスの関係もあるのか、9名がアディダスのシューズを身に着けていたようですが、今回は出場選手全員がナイキのシューズで大会に臨んだようです。
身につける道具によって結果が左右する、と聞くと私は水泳を思い出してしまいます。10年以上前の話になるようですが、speedo社が開発した「レーザーレーサー」という水着を着用した選手が次々と世界新記録を更新する時代がありました。本来ならば、各選手同士の力比べであるはずの競技が、「道具」による競争に変わってしまった印象を抱かせました。
今大会の結果を受けて、素直に彼らの勝利を讃えられない自分がいたのは、ここに起因しそうです。科学的な根拠に基づいた練習法や理論に基づいた動作、様々な知見に基づいた体作りや栄養管理など、陸上競技に限らず、様々なスポーツにおいて科学による進歩は目覚ましいものがあります。自分たちが幼少期にふれていたスポーツと現代のスポーツではまるで違う競技をしているかのように練習方法が進化しているものもあるでしょう。
もちろん競技ごとに使用する道具も、選手のパフォーマンスを最大限引き上げるための改良は今後も絶え間なく続くでしょうし、それによって異次元の記録が出ること自体は「悪」ではありません。
しかし、一教育者として考えたときに、使用する「道具」によって勝敗が左右する競技で、子どもたちに何を育ませたらよいのか、これまで直面してこなかった悩みにぶつかりそうな気がしました。
少年野球の世界ではミズノ社が発売している「ビヨンドマックスレガシー」と呼ばれる「飛ぶバット」が話題になっています。一般的には金属で作られているバットですが、このバットは芯の部分にウレタン素材を使用することで、使用されている軟式ボールの反発力を高め、金属バットを上回る飛距離を実現するそうです。
我々が幼いころの野球は、カラダの大きい子や上手な子がバッターボックスに立つと「**くんだから外野バック!」といった声があがったものですが、いまでは「レガシーだから外野バック!」と選手ではなく「道具」によって守備位置が変わってしまうようです。
少年野球に革命を起こした「飛ぶバット」はなんと1本約5万円。1本約1万円前後で購入可能な金属バットと比べると価格差は歴然で性能差すら表しているようにも感じてしまいます。野球はバットだけではなく、グローブやボール、スパイク、ユニフォームなどプレイするために必要な道具一式は他のスポーツと比べても多いため、1本5万円のバットを買い与えるのは一般家庭では躊躇してしまうでしょう。でもこのバットを使えば、活躍が約束されたり、レギュラー定着がいち早く実現できるのであれば…親としてはどうしてあげるのがいいものでしょうか?
幸い(?)なことに私が携わっているサッカー界では、まだスーパーシュートが打てるスパイクまではないようですので、まだまだ選手個々人のフィジカルやテクニックで勝負できる世界でスポーツに打ち込めるようなので、このような悩みに直面するのはもう少し先の未来かもしれません。
「志は高く、腰は低く」。どこかで耳にしたような、していないような言葉から今回はスタートします。
こういった類の書き出しは「謙虚さが大事」といった話になりがちですが、あえて「高く掲げる」ほうの話に今回はスポットを当てたいとおもいます。
「志」と似た言葉で、「目標」や「スローガン(標語)」といったものがあります。みなさん違いがわかりますか?「志」とは、ある方向を目指す気持ちや心に思い決めた目的や目標、を意味します。「目標」とは、定められた目的(地)に行き着くように、またそこから外れないように目印とするもの、と定義されています。「スローガン(標語)」は、ある組織や集団の日常における行動指針、を表します。
さて、ランナーである私たちが設定するのは「どれ」でしょうか?
話は変わりますが、先日新聞やニュースを目にしているときに、「コンビニにおける無人店舗の拡大」に関する記事に目が留まりました。某大手コンビニチェーンでは、今年初出店したばかりの無人店を3年後には1,000店舗まで拡大させるという大きな「目標」を掲げ、話題になりました。
無人店を拡大することでこれまで採算が見合わなかったスペース・地域にも商圏を広げることができ、新たな顧客獲得につながることや、その店舗運営をモデルに既存店の省力化・省人化をすすめることができれば、店員がより付加価値の高いサービス提供に従事することができ、価値創造や価値革新につながる、と考えられているようです。
もちろん、マーケットに対するイノベーションとしても非常に注目される内容ではありましたが、私はこの「店舗拡大路線」を決定させた考え方や着想に感銘を受けました。その判断をした経営者は次のように理由を語ったそうです。
「あえて高い目標を掲げることで様々な課題が浮かび上がってくる」
これまでこのようなものを身近にしたことがありませんか?
「目指せ!全国制覇!!」「前年度比売上10%UP!!」「今年こそマイナス5キロ!」
みなさんはこのように掲げられたものを「目標」にしていましたか?それとも「スローガン(標語)」にしていましたか?
少なくとも掲げたものを達成したことがある人は、それを「目標」としていたはずです。逆に達成したことのないものを掲げていた人は「スローガン(標語)」に留まっていたかもしれません。
似て非なるこれらの言葉には決定的に異なるところがあります。「志」や「スローガン(標語)」は終点の意味合いを持ちますが、「目標」は通過点である、という点です。
「目標」が「通過点」である、ということは真に達成すべきものが別にあることを示唆します。その最終地点にたどり着くまでの「チェックポイント」として設定されるのが「目標」です。「目標」を達成するには、何が必要でしょうか?
「目標」は自分ごととして真摯に向き合うことで「課題」が見えてきます。例えば、いままでフルマラソンの最高記録が4時間30分だった人が3時間(サブスリー)のタイムを目指そうと「目標」を立て、本当に実現しようとおもったとき、闇雲にトレーニングを重ねるでしょうか?
1時間以上タイムを縮めようとおもったら、まずは現状分析が必要です。まず、自分は4時間切りがなぜできないのか、どうしたら3時間で走りきれるようになるのか?スタミナアップが必要なのか、フォームの修正が必要なのか、シューズは適切か、気温や天候に左右されることがどの程度あるのか・・・など、様々な視点から「課題」を抽出し、それを「克服」しようとするのではないでしょうか?
高すぎる目標は「いつか叶えばいいなぁ」という夢心地なものになってしまうため、ある程度現実味は帯びなければなりませんが、届きそうな高い目標は自分自身に新たな視座をもたらすきっかけになり得ます。
最近、冬の足音がしっかり聞こえるようになり、なかなか走ることが億劫な季節になってしまいました。地域によってはそろそろランも難しいコンディションが続くことも想像されます。こういったときだからこそ、一度立ち止まって、自分に適度な負荷をかける意味合いで、少し背伸びした「目標」を掲げることで、1年の振り返りや新年の準備としてモチベーションの維持を図ってみてはいかがでしょうか?
大谷翔平選手。今年、最も世界中を席巻したプロスポーツ選手の1人と言って異論はないでしょう。「二刀流」という唯一無二の武器を手に、投手としても野手としても大リーグでトップ選手に引けを取らない輝かしい成績を残しました。彼の活躍はプレイにとどまることなく、「スポーツ用品」の市場にも大きな影響を与えているようです。
大谷選手の使用するバット・グローブ・スパイクはいずれも同じメーカーの製品ですが、皆さんはどこのメーカーの製品を使用しているかお分かりですか?実は様々な競技用シューズのメーカーとして有名な「アシックス」の製品を使用しています。野球用品のメーカーとしての印象はそこまで強くなかったのですが、今期の大谷選手の活躍により、アシックス全体での売上構成のうち、野球用品の売上が急拡大しているそうです。
日本を代表する総合スポーツ用品メーカーであるミズノは、卓球の伊藤美誠選手のシューズを2年もの歳月をかけて開発し、先日の東京オリンピックでの活躍を支えました。その伊藤選手が使用していたシューズは、先日一般向けに販売が開始され、こちらも売れ行きが好調なようです。中にはそのシューズの購入をきっかけに卓球競技を始められる方もいらっしゃるとか。
皆さんのことを「ランナー」としてひとくくりにしたとしても、ランナーとしてのキャリアは様々だとおもわれます。競技歴はもちろんのこと、趣味やストレス発散を目的に「ラン」に勤しむ人もいれば、1秒のタイムを縮めるために心血を注ぐストイックさをもって「ラン」に取り組む人など、「ラン」にかける情熱も濃淡がそれぞれあるとおもいます。
とはいえ、誰にでも「駆け出し」の頃は存在します。誰しも初めのころは、競技そのものに対する魅力や、競技をするために身にまとう服装や道具に「高揚感」を覚えませんでしたか?いわゆる「カタチから入る」というものです。
かくいう私も意外とミーハーな部分があり、トップ選手使用モデルの商品はつい手に取ってしまいがちです。それを使用したからといって即座にトップアスリートのようなパフォーマンスが発揮できるようになるわけではないことは重々承知しているのですが、それをまとっている自分に少し酔いしれたい心地になることがよくあります。
「ラン」に限らず、スポーツは気持ち、メンタルに左右されるものとよく言われます。野球界では「足にスランプはない」といった常套句があるそうですが、「ラン」の世界ではなんだか馴染まないような気がしています。自分がときめいて新調したシューズを履いて初めて走る日は、他に例えようのない特別感を味わうことができ、普段以上に足取りが軽やかになり、気分も乗りますよね?身につけるもの1つで気分を高め、爽やかに駆け抜けた後の心地よさは月並みな表現ですが「最高」です。
例年であれば「スポーツの秋」とも呼ばれる時期ですから、ランナーにとって最も心地よい季節といえるのですが、今年は急な冷え込みが訪れてしまい、「日和」といえる天候には恵まれなかったかもしれません。
ですが、コロナの影響が下火になり、なにかを始めたり、再スタートするにはもってこいのタイミングだとおもいます。「お気に入り」を手に取って、いままでのうっぷんを晴らすかのように颯爽と街に繰り出してみませんか?いちランナーとして、新しいランナーの誕生を心待ちにしています。
先日、パラリンピックが閉幕しました。オリンピック同様、開催には賛否両論の意見があり、どうしても不安が払拭できない中で、各競技がスタートしていきました。恥ずかしながら、これほどパラリンピックに釘付けになったのは、今回が初めてでした。これまでもパラリンピック競技はテレビで見ることができたはずですが、ここまで選手の一挙手一投足に注目し、真剣に見入ってしまったのは私だけではないでしょう。
選手が懸命に頑張る姿、競技に対する誇り(リスペクト)、サポートしてくれている周りの方々への感謝の気持ち、これらはオリンピックでも同じような感動を味わいましたが、パラリンピアン一人ひとりからうねり出されるようなパフォーマンスに、言葉どおり「魅了」され、胸を打たれる思いをしたのは、パラリンピックでしか感じたことのない心の揺さぶられ方でした。
JPC(日本パラリンピック委員会)の河合純一委員長は、委員長に就任した際の記者会見で「よくオリンピックは平和の祭典といわれるが、パラリンピックは人間の可能性の祭典だ。」とおっしゃっておられました。我々の想像を遥かに超えるパフォーマンスを目の当たりにし、同じ人間としての「可能性」に触れた体験が、これほどまでの高揚感を生み出したのだと、私はおもっています。
パラリンピックを機に、障害の有無や年齢、性別や人種の垣根を取り払い、誰もが余すことなく個性と能力を発揮し、一人ひとりが輝ける社会を本当に目指していかなければならないとおもいます。パラリンピアンから得た「気づき」はこれからの成熟社会に役立てなければなりません。赤・青・緑の3色で表現されたパラリンピックのシンボルマークは「スリーアギトス」と呼ばれ、「アギト」とはラテン語で「私は動く」という意味を表すそうです。困難なことがあっても諦めずに、限界に挑戦し続ける選手たちの躍動を表現しています。
コロナ禍により、悶々として、うつうつとした時間は、もう2年近く続こうとしています。行動に制限がかけられ、他人から常に自分の動きを見られているような抑圧感。私を含め、ほとんどの方が非常にストレスを感じている日々だとおもいます。ただ、この不条理さに不満を唱えているうちは「多様性」が認められた社会には近づかない気がします。
これまで、社会はマジョリティが最適化され、彼らが過ごしやすい街や空間が作られていました。その反動といっては少し言葉がすぎるかもしれませんが、マイノリティにしわ寄せがいってしまうことが多くあったのだとおもいます。このバランスの均衡化に違和感を覚えなくなっていく世の中が、本当の意味での共生社会につながっていく気がします。
「やらない理由」や「言い訳」を口にしてしまうことが増えた今日この頃ですが、私は動き始めました。忙しさを理由に、長らく会費を払うだけだったジムに再度通う時間を作り、久々に汗を流す習慣を取り戻しています。壮大なお話をしたあとに拍子抜けするような、小さな話ですが、まずは小さな一歩から、ですよね。
先日閉会した東京2020オリンピック。皆さんも連日の中継・報道等で選手たちの活躍に一喜一憂する日々を過ごされたのではないでしょうか。
かくいう私も一人のランナーとして、また、体育会サッカー部の顧問として、日々スポーツに携わる機会を多く持つこともあり、オリンピック開催を非常に楽しみにしていました。
一方、オリンピックを開催することにより新型コロナウイルス感染拡大に歯止めが効かなくなることは、連日のように専門家の方々が強く訴えられていました。その考え方や危険性についてはとても納得のいく論拠を唱えられていましたので、感染対策に不安が残る中での開催については反対せざるを得ないとも思っていました。
そのような期待と不安が入り交じるなか、気がつけば開会式のセレモニーが放送されました。入場時に使用されたBGMや「動くピクトグラム」のパフォーマンスなどに日本中が魅了され、一気にオリンピック歓迎のスイッチが入ったような感覚になりました。
そこからは、史上最多となる金メダルを獲得した柔道をはじめ、新競技として注目されたスケートボード・サーフィン・空手・スポーツクライミングにおける選手たちの躍動、野球・サッカーなど開会前から注目度の高い競技での躍進など、「オリンピック反対」の様子はどこ吹く風。またたく間に「オリンピック」が我々の日常を席巻していきました。
改めてスポーツの魅力に心酔させられた私たちですが、ランナーの皆さんにとって、一番頑張りが理解しやすい競技は「マラソン」だったのではないでしょうか。
NHK総合が8日に生中継した「東京2020オリンピック男子マラソン」の世帯平均視聴率は31・4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)で、競技では野球決勝(日本―米国)の37.0%に次ぐ視聴率を記録したようです。
残念ながら今大会マラソンではメダルの獲得は叶いませんでしたが、メダルを獲得した他の競技と同様に、彼らの活躍ぶりに「感動」と「満足感」がありました。大迫選手はレース後に「100点満点の頑張りができた。いろんな人が応援してくれて非常に力になり、次の世代につながるレースになった。次の世代の人は頑張ればメダル争いに絡めると思う。それは後輩たちの番です」とコメントし、いよいよ男子マラソンもオリンピックでメダルが狙えるレベルに到達しつつあることを証明してくれました。
今大会では、これまでメダルを獲得出来ていなかった男子フェンシング(エペ団体)や女子バスケットボールなど大きな飛躍と結果を残した競技が数多くありました。世界に「通用しない」現実を改めて直視し、過去の成功体験による考えはリセットしたうえで、「世界基準で結果を残すため」の良い指導を仰いだことが大きいように思います。メダルこそ獲れませんでしたが、男子サッカーが世界レベルに到達していることも、彼らがヨーロッパをはじめとした「世界基準」で日々努力を積み重ねていることに起因するでしょう。
「ニッポン」のスポーツが根性論をベースとした血と汗と涙の結晶を美徳としていた時代から、様々なデータや最新の理論に基づいたトレーニングやカラダの管理、戦術などを身につける時代に変化したことでこのような素晴らしい結果を生み出せるようになったのだと思います。実際に、オリンピックでのメダル獲得数はこの20年間で大幅に増え、メダルに届かなかったスポーツも軒並み世界トップレベルに近づきました。
東京2020オリンピック(2021年開催)のメダル獲得数は58個(金27・銀14・銅17)
シドニーオリンピック(2000年開催)のメダル獲得数は18個(金5・銀8・銅5)
ここで、少し脱線した話になるのですが、「経済」に目を向けます。経済成長の目安となるGDP(国内総生産)ですが、日本はシドニーオリンピックが開催された2000年535兆円という規模でした。それから20年経過した2020年のGDPは538兆円と、ほぼ横ばいです。一方で、2020年における中国のGDPは日本円で1,628兆円、2000年当初と比較するとなんと10倍以上に拡大しています。中国以外のアジア各国もこの20年で目覚ましい経済成長を遂げています。
この20年で経済成長に成功した多くの国は、経済面で「世界に通用しない現実」を認め、その解消と変貌に並々ならぬ努力を積み重ねてきたのだと思います。それこそ2000年当時は経済大国であった日本を見習い、何を「強み」にするか、どうやって「弱み」を和らげるか、必死に学んだのだと思います。
過去の成功体験に固執し「がんばったで賞」に誇りを抱く時代はもう周回遅れです。このオリンピックを通じてそう感じる方は少なくないはずです。頑張る「フリ」が結果をもたらさないことをスポーツは証明してくれます。
東京2020オリンピックを開催してよかった、という感動をもたらすのはスポーツだけにとどまらないことを願うばかりです。
いま学生の間では「昭和」っぽさが、一周回って「新しい」ものとして脚光を浴びていることを皆さんはご存知でしょうか?
半年ほど前からいわゆる「イマドキの若者」の間でレトロブームがきている、という話題を耳にするようになりました。我々の世代からしたら懐かしさを覚え、当時は当たり前だったものが、彼ら彼女らからするとどうやら「映える」そうです。このレトロブームは被写体としてのものなのだろうと勝手に先入観を抱いていたら、先日ゼミ生のスマートフォンから80年代の懐かしいメロディが次々と流れてきました。まさか、いまをときめく大学生と私が大学生時代にラジオで幾度となく聴いた曲で盛り上がるとは夢にも思いませんでした。しかも特定の子が「マニア」として聞いているのではなく、他の学生も80年代の曲をよく知っていて、もはや歌謡曲を聴くことは「日常」と化しているようで、驚きを隠せませんでした。
令和を生きる10代20代の若い世代が昭和に共感する姿は未だに信じがたい光景ではありますが、「昭和」市場が潤っているのは全世界からのニーズでもあるようです。音楽の話が続いて恐縮ですが、近年日本のレコードとカセットテープが大きく売上を伸ばしているようです。アメリカに至ってはレコードの売上がCDの売上を上回るほど市場規模が拡大しているそうです。そういった影響やECサイトの普及により、日本のレコードも海外の購入者が右肩上がりに増加しているそうです。
レコードに限らず、コロナ禍において日本の漆器をはじめとした伝統工芸品の売れ行きが伸びたり、アフターコロナにおける「行きたい海外旅行先」としても日本はとても人気が高いようです。おいしい和食が食べたい、美しい景色を見たいといったニーズが多く、とうとう「ジャパンロス」という言葉が誕生したほど、海外からは日本に熱視線が送られています。
なぜ、この期に及んで「昭和」や「日本」が注目されているのでしょうか?私は、そこに「本物の良さ」が存在しているからではないか、と見ています。40~50年前に日本中が熱狂したアイドル、こぞって履いたスニーカー、目に焼き付けた映画・・・そこには当時の若者を虜にする「価値」があって、その価値は時代が移ろいゆいたとしても変わらない価値、「本物の良さ」があったからこそいまリバイバルブームが到来し、当時トレンドの最先端にいた年代と同じ歳付きの若者に刺さるのだとおもいます。
まもなく東京オリンピックが開幕します。オリンピックという大会を通じて世界中が様々なスポーツに触れるとても特別な時間・空間です。残念ながらこのオリンピックは生肌で感じることは叶わず、メディアを通じて各競技を観戦することになりそうですが、つい夢中になって画面に釘付けになったり、息を呑む音すら大きく感じるほど静寂に勝負の行く末を見守るのは、スポーツそのものに「本物の良さ」があることを本能的に、刷り込まれているかのように知っているからではないでしょうか。
ここまで来たら、ランナーの皆さんも言わずとも気づいているとおもいますが、「Run」も昔から変わらない良さがあるから、いまも多くの人が「走る快感」に酔いしれているのだとおもいます。競技としてのマラソン、スポーツとしてのランニング、趣味としてのジョギング。ランナーそれぞれが求める価値に合わせて多種多様な「Run」があります。ここまでバラエティに富んだスポーツは珍しいですよね。
だから、私たちは「走り続ける」。そこに走る「価値」や「意味」が見いだせるから。これまでも、そしてこれからも。オリンピックが皆さんにとっても「本物」を改めて認識する素敵な機会になり、世界中に感動をもたらす祭典になることを祈念します。
いま学生の間では「昭和」っぽさが、一周回って「新しい」ものとして脚光を浴びていることを皆さんはご存知でしょうか?
半年ほど前からいわゆる「イマドキの若者」の間でレトロブームがきている、という話題を耳にするようになりました。我々の世代からしたら懐かしさを覚え、当時は当たり前だったものが、彼ら彼女らからするとどうやら「映える」そうです。このレトロブームは被写体としてのものなのだろうと勝手に先入観を抱いていたら、先日ゼミ生のスマートフォンから80年代の懐かしいメロディが次々と流れてきました。まさか、いまをときめく大学生と私が大学生時代にラジオで幾度となく聴いた曲で盛り上がるとは夢にも思いませんでした。しかも特定の子が「マニア」として聞いているのではなく、他の学生も80年代の曲をよく知っていて、もはや歌謡曲を聴くことは「日常」と化しているようで、驚きを隠せませんでした。
令和を生きる10代20代の若い世代が昭和に共感する姿は未だに信じがたい光景ではありますが、「昭和」市場が潤っているのは全世界からのニーズでもあるようです。音楽の話が続いて恐縮ですが、近年日本のレコードとカセットテープが大きく売上を伸ばしているようです。アメリカに至ってはレコードの売上がCDの売上を上回るほど市場規模が拡大しているそうです。そういった影響やECサイトの普及により、日本のレコードも海外の購入者が右肩上がりに増加しているそうです。
レコードに限らず、コロナ禍において日本の漆器をはじめとした伝統工芸品の売れ行きが伸びたり、アフターコロナにおける「行きたい海外旅行先」としても日本はとても人気が高いようです。おいしい和食が食べたい、美しい景色を見たいといったニーズが多く、とうとう「ジャパンロス」という言葉が誕生したほど、海外からは日本に熱視線が送られています。
なぜ、この期に及んで「昭和」や「日本」が注目されているのでしょうか?私は、そこに「本物の良さ」が存在しているからではないか、と見ています。40~50年前に日本中が熱狂したアイドル、こぞって履いたスニーカー、目に焼き付けた映画・・・そこには当時の若者を虜にする「価値」があって、その価値は時代が移ろいゆいたとしても変わらない価値、「本物の良さ」があったからこそいまリバイバルブームが到来し、当時トレンドの最先端にいた年代と同じ歳付きの若者に刺さるのだとおもいます。
まもなく東京オリンピックが開幕します。オリンピックという大会を通じて世界中が様々なスポーツに触れるとても特別な時間・空間です。残念ながらこのオリンピックは生肌で感じることは叶わず、メディアを通じて各競技を観戦することになりそうですが、つい夢中になって画面に釘付けになったり、息を呑む音すら大きく感じるほど静寂に勝負の行く末を見守るのは、スポーツそのものに「本物の良さ」があることを本能的に、刷り込まれているかのように知っているからではないでしょうか。
ここまで来たら、ランナーの皆さんも言わずとも気づいているとおもいますが、「Run」も昔から変わらない良さがあるから、いまも多くの人が「走る快感」に酔いしれているのだとおもいます。競技としてのマラソン、スポーツとしてのランニング、趣味としてのジョギング。ランナーそれぞれが求める価値に合わせて多種多様な「Run」があります。ここまでバラエティに富んだスポーツは珍しいですよね。
だから、私たちは「走り続ける」。そこに走る「価値」や「意味」が見いだせるから。これまでも、そしてこれからも。オリンピックが皆さんにとっても「本物」を改めて認識する素敵な機会になり、世界中に感動をもたらす祭典になることを祈念します。
長年同じことを続けることって正直しんどいですよね。毎朝5キロのランニングを10年間続けています!といったようなお話は、他人から聞くと尊敬に値し、すごいなぁと素直に感嘆しますが、自分に置き換えて同じような話ができるか、というとなかなかそのようなエピソードを持ち合わせていなかったり、同じように頑張ろうとしても道半ば、何なら三日坊主で終わってしまうようなこともよくありませんか?
この書き出しからでは自慢話に聞こえるかもしれませんが、私は大学教員として教鞭をとる傍ら、長年ラジオ大阪で番組のパーソナリティを務めています。今年で18年目を迎え、毎週1回収録に向かうことは生活の一部のようになっています。
このようなお話をすると「なぜ長期間にわたってラジオ番組を担当し続けられるのですか?秘訣はありますか?」という定番の質問をよくいただきます。その際、私は決まって「トークが上手くないことを知っているからです」と答えます。
謙遜ではなく、毎回新鮮で面白い話ができるから人気を博したわけではないと自覚しています。事実、ラジオを担当し始めたころはディレクターの冷ややかな視線を浴びてばかりでした。「自分が言いたいことを言ってるだけですね。」「マイクの向こうにリスナーがいることを意識していますか?」「リスナーは何を聴きたいと思っているか考えたことありますか?」「リスナーに届くトークでなければ、失敗しても誰も失敗と気づいてくれませんよ。」など、痛烈なダメ出しばかりされていました。
いま思えば、パーソナリティに抜擢されたことで舞い上がっていたのか、自分のことを「上手く・かっこよく・いいこと」を伝えられる人間なのだと自己陶酔していました。慢心によって、全く響かない言葉でトークをし続けてしまっていたようです。
それに気づいた後は、「気取らない、飾らない」を意識して、「先日は電気店でテレビの値引きを頑張った」「溜めたポイントが失効して悔しかった」といったような生活感のある身近な話題と世相を絡めて経済や経営の話をするように変えると、リスナーの反応が見違えてよくなり、自分自身も楽しくなってきました。
8年前からは更に工夫を凝らし、プロデューサーにお願いして、私のラジオ番組のアシスタントディレクター(AD)は、私のゼミ生が担当しています。番組の構成や話のネタはADである学生がすべて考え、私と打合せをして、彼らの考えを私が代弁しているような番組にしています。常に20歳前後の目線からトークを展開しています。最初は違和感を覚えることも多くありましたが、年齢を重ねるにつれ、いい意味でギャップが生まれ、新しい発見をする機会も増えて、刺激的な時間になっています。
小さいころから20代ぐらいまでは一方的に何かを教えられ、自分は何もできないんだなぁと無力さを感じる機会に事を欠きません。お箸の使い方がわからない、逆上がりができない、英語の文法が理解できない、ネクタイがうまく締められない、会議の議事録が書けない、など完全に素人であるがゆえに「教わらないと何もできない」という経験をたくさんします。
ところが30代ぐらいを迎えると、これまでの経験から「なんとなく」ある程度何でもできてしまったり、できるだろうと思われて「正しいこと」や「新しいこと」を教えてもらう機会が激減します。無力さを感じる機会が訪れないことで、いま持ち合わせている引き出しだけで対処し続けてしまいます。自身をアップデートする機会を逸し、ひいては「学ぶ力」を低下させることにつながっていきます。
かくいう私もそうですが、「失敗が許されない」年齢を重ねてきたからこそ、いまからの失敗は怖くてたまりません。築き上げたプライドが崩れ、大きな傷を負ってしまうこともあるでしょう。ただ、これから次々と新しいモノが生み出されるこの時代に、いろんなものを吸収できる土壌がないのは死活問題にきっとなります。
日々のランニング、前後のストレッチ、履き慣れたシューズ。昔からの習慣に変にとらわれていませんか?人にアドバイスをもらうとき、自分と同じような年代やタイムの人に尋ねて、悩みを共有することで安心感を得るだけになっていませんか?少し勇気を出して、あえて教えてもらう側に回ることで、自分の弱さに気付かされることはよくあります。弱さを知ることで本当の意味で強くなれると私は信じています。
そろそろ季節は夏を迎え、外でのトレーニングは一層過酷さを増す時期になります。どのスポーツでも厳しい夏の暑さと練習で一段と成長する、と言われます。もしかすると自分に厳しくなるにも、もってこいの時期ではないでしょうか。
コロナ禍の中、大学も2021年度の授業がスタートしました。追手門学院大学では、オンライン授業と対面授業を併用したかたちで授業をおこなっています。対面授業では、教室内で受講する学生の数を100名未満とし、かつ、教室内の定員(座席数)を従来の2分の1以下とし、更に全ての授業で座席指定をおこなうなど感染予防に努めています。
学生たちは昨年度の前半オンラインでの講義受講を余儀なくされました。後半は徐々に対面での授業も再開しましたが以前のようにはまだ戻っていません。オンライン授業と対面授業を併用した学生生活は2年目とはいえ、まだ浸透してから1年も経っていません。まだまだ不慣れな部分もあることが不安視される頃合いだとおもっていましたが、先日、私が担当している対面授業の受講者の様子を見て、あることに気がつきました。受講生の集中力がとても高く、居眠りやスマホをみる学生が皆無でした。恥ずかしながら、コロナ前の講義では、居眠りや私語の注意が少しはありました。その要因は2つあると考えていて、1つは自ら納得できる授業を選び、大学に出てきて学ぶことの喜びを感じていること、もう1つは、座席指定なので無理に友達と隣り合わせに座らなくていいことです。
授業を選択する際の要素に「授業形態」が追加されたことで、よい意味で受講に対する「責任」が高まったように感じています。これまでは大学の授業も「与えられるもの」という意識が少なからずあったのかもしれません。いまは、自分の学修スタイルにあった学習方法はなにか、大学に登校したからには何を得たいのか、といった部分に感度が鋭くなっているような気がします。大学に来て、対面で友人と適度なコミュニケーションをとることは、人間関係の構築やこれからの人生を豊かにするために非常に貴重な時間となりました。しかし、それを講義中にもかかわらず費やすことは学生の本文としては本末転倒。勉強するときには集中して勉強に取り組むことの価値が見直されたようにおもえます。メリハリやバランス感覚の重要性にこのようなかたちで気付かされるのは意外でした。
さて、その話をスポーツに向けてみます。スポーツは競技種目や取り組むスタイルによって温度差やレベル感に差異があるとはいえ、ほとんどの場合において目標設定をして取組みます。大会で優勝したい、誰々に勝ちたい、など目標設定が具体的で、その目標達成のために選択される手段が適切であれば、目標達成の近道になります。
例えば、意識の高い人と練習したり、トップクラスの選手と練習ともにすると効果が上がる、といった経験をしたことはありませんか?それは明確な目標となる人物の一挙手一投足に着目し、自分自身の糧にできることはないか必死に探して、ときには盗むことに集中して取り組むことができるため、普段の何倍もの練習効果があるように体感できるのだとおもいます。
環境を変えることで意識が変わることはよくあります。それこそ座席が指定されて友人と隣り合って講義を受講しなくなった環境の変化によって学生の集中度が増した、ということはこれに当てはまります。ただ、環境の変化は待っていても適切なタイミングで訪れるとは限りません。自分自身の意識を変革することで外的な環境は変わらなくとも内的な環境(考え方うや視点など)を変えることでパフォーマンスを上げることは可能ではないでしょうか。
マラソンはいい意味で自分の世界を作りだして、自分自身と向き合うことができる競技です。「タイム」や「距離」といった明確な目標設定もしやすく、結果の可視化が容易な競技に分類されるでしょう。以前までのようにリアルな場で大勢の仲間達と一緒に走る機会は減っていくのかもしれません。それでも自分の記録を広く公開したり、共有したりすることでこれまで以上に多くのランナーと切磋琢磨できる機会を得られるようになるのがスタンダードになるのかもしれません。マラソンも現実とオンラインを併用した新しいスポーツに生まれ変わることでより熱を帯びていくスポーツに変容していくかもしれませんね。
スマートフォンがご主人さま?情報化社会の進化に正しく付き合うには
スマートフォンをお持ちの方は大半の方が共感してくれるとおもっているのですが、外に出かけた際、うっかりスマートフォンを持っていくことを忘れてしまうと、すごく不安になりませんか?後悔しませんか?
少なくとも私は頭を抱えてしまうほど後悔の念にとらわれてしまいます。
もちろんその理由は仕事柄、いろんな方と連絡が取れなくなってしまうことや情報収集ができなくなってしまうなど、仕事に支障が出ることがメインにはなりますが、「自分」を認識できない可能性にかかわる不安が押し寄せることも理由の1つとして挙げられます。
普段、スマートフォンをはじめとした携帯端末をどのように利用していますか?
電話やメールなどといった連絡手段として利用する人もいれば、WebサイトやSNSを活用した情報収集のための端末として利用する人や、中にはいわゆるソーシャルゲームを行うための娯楽要素が強い方もいるかもしれません。
それ以外にも、いまは多様なアプリが展開されているため、その便利さに惹かれて何かしらの「記録」を保存するための媒体として使用する方も多いのではないでしょうか。
例えば写真(カメラ)。街ゆく風景や旅行先の記憶を残すための写真やメモとして写真を使用する人もいまや当たり前といっていいほど多くいるでしょう。他にも睡眠時間、体重や摂取カロリーといった健康管理に関するもの、はたまた特定のWebサイトを介して買い物した購入記録を確認するためにも使用しているケースも多そうです。ランナーの方でいえば、走った距離・時間・コース・心拍数などを記録できるアプリがあるため、そういった機能を重宝している人も多いことが考えられます。
話は冒頭に戻りますが、私はスマートフォンを忘れてしまった場合、あらゆる「記録」が確認できず、それに対する不安を覚えて「しまう」ようになってしまいました。
スマートフォンの利便性にかまけて、といってはおこがましいですが、何でもスマートフォンを頼ることで「自分」すらもスマートフォンに保存してしまっているような、主従関係が逆転してしまっている感覚に陥ってしまうことがあります。
手段の目的化ではないですが、もしかしたらランナーの方の中にも「走ることが好き」だからランニングを習慣化して、それを見える化するためにスマートフォンのアプリで走った距離や時間を記録することを始めたにもかかわらず、いつの間にか「記録を残し続けるために」走っている人がいるかもしれません。
走ることの素晴らしさは、走っているときに感じる風、移り変わる風景、なんとも言えない高揚感(ランナーズハイ)など、スマートフォンには残せないものがたくさんあります。
自分自身でしか得ることのできない、記録(数字)に残せない特別な体験は、ある意味これからとても付加価値の高いものになっていくような気がしています。
最近、YahooとLINEが経営統合することが報道されました。GAFAと比べればまだまだ足元にも及ばないかもしれませんが、膨大な個人情報を集約できうる企業が日本にも誕生したことがとても衝撃的です。
日本初の巨大IT企業としてサービス創出に期待が高まる一方で、個人情報の管理やデータ利用の透明性を高める取り組みは欠かせません。なぜなら、彼らの発展には我々が普段利用しているサービスの「記録」を分析、加工、利用することが必須になってくるからです。
スマートフォンを始めとしたデバイスに甘えて、なんでもかんでも情報を搭載していくことは、はたして正しい行為なのか。主従関係を履き違えないことは、今後とても大切な情報リテラシーになりうることでしょう。
「実力発揮することの条件」とは一体なんと答えたらいいのでしょうか。
1月31日に号砲した大阪国際女子マラソン。新型コロナウイルス感染予防対策の観点から、公道には出ず、大阪市内にある長居公園内を約15周にわたって周遊するコースで行われました。高低差がなく平坦な道が続くこと、風の影響を受けにくいコースであること、ペースメーカーに有名な男子マラソン選手が起用され、大会記録や日本記録を見据えたハイペースな展開が予想されることから、出場選手の好記録が期待されるという異例なレースとなりました。
当日はテレビ放映もされ、ゴール直前までペースメーカーが牽引する姿やペースメーカーが出場選手に声掛けをするなど、これまでにあまり見たことのないシーンも目にする新しいマラソンが映し出され、新鮮なところもありましたが、レースの結果としては期待された日本記録の更新はなされず、優勝した選手の悔し涙が溢れてしまうなど「勝者なき大会」として幕を閉じてしまいました。
ところで話は大きく変わりますが、大学はいま、受験シーズン真っ只中です。私自身も、大学の一教員として大学入試の業務に携わる機会があり、高校生が入試問題と真剣に向き合っている姿を目の当たりにしています。
入試は、当日までの粘り強い学習の積み重ねはもちろん大事ですが、もう1つ当日までに大事なこと、やり遂げなければならないことがあります。それは、体調管理です。
これからの人生(進路)をかけた「受験」は、実力をつけるための学習と実力を発揮するためのコンディション(=万全な体調で臨むこと)が大切とされています。
特にこの時期は例年インフルエンザが猛威を振るう季節であり、加えて、近年の温暖な気候の影響で花粉症のスタートも年々早まっているような印象を受けます。そこに今年はコロナウイルスの心配まで重なりました。風邪や花粉症の軽度な発症が、クラスターを引き起こしかねないコロナウイルス感染症かもしれないというとてつもないプレッシャーの中、受験勉強と平行して体調管理をしてきた高校生やそのご家族は、相当神経をすり減らしながら日々を過ごして来られたのだろうとおもいます。
話を戻します。スポーツにおいて当日、最高のパフォーマンスを発揮するには、最高のコンディションを整える必要がありました。ここでコンディションが指す意味合いの多くはフィジカルとメンタル面でした。120%のチカラが発揮できる筋肉の状態、最高潮に高ぶったモチベーションを整えることに神経を使っていたスポーツ選手は、ここに「コロナウイルスに感染しない、感染するリスクを回避する」という新しい要素にもエネルギーを注ぐ必要が出てきました。
間違いなく試合(レース)当日をベストな状態で迎えることのハードルが高まっていると言えるでしょう。
野球やサッカーをはじめとしたチームスポーツ(球技)では、個人個人のコンディションはもちろん試合結果に影響をもたらしますが、その影響度を明確に数値化(可視化)しにくいため、状態を正確に把握することは難しいと言えます。その一方でマラソンをはじめとした測定された数値で競うスポーツは如実に結果として現れます。
どのスポーツも勝者と敗者が現れ、敗者には否応なく厳しい試練が与えられますが、距離やタイムを競うスポーツはときに勝者にすら微笑まない残酷さを課すことがあります。
目に見えない敵との戦いは壮絶で、相当なプレッシャーがかかります。
日常だけではとどまらず、スポーツにおいても「新しい生活様式」が求められているのかもしれません。
現時点ではコロナウイルスのない、元の世界でのスポーツは夢物語なのかもしれませんが、早くストレスから解放され、これまでどおりに実力を発揮できる世界でスポーツに熱中できるようになることを願うばかりです。
歳を重ねるにつれて、「感動」モノに弱くなるという経験に、みなさん心当たりはありませんか?
新年あけましておめでとうございます。ランナーの皆さんにとって新年早々はやや特別な日ですよね。そう、駅伝です。今年、2021年に日本テレビ系で放送された「第97回 東京箱根間往復大学駅伝競争」の平均世帯視聴率が32.3%で、歴代1位となったようです。コロナの影響で沿道での観戦自粛を要請した影響もあろうかとおもいますが、テレビ離れが叫ばれる中、30%を超える視聴率を獲得できる番組(コンテンツ)だったことは、素直に驚きです。
寝正月気味で少し浮世離れしてしまった頭ではありましたが、「箱根駅伝」という番組(コンテンツ)は何故毎年多くの視聴者を集めるのか、ふと考えて見たくなりました。コロナの影響抜きにしても毎年全国で多くの方が心を動かされる「箱根駅伝」は何が魅力的なのでしょうか。皆さんも一緒に考えて見てください。
少し話は逸れてしまいますが、インタビューに答える各種競技の有名アスリートのコメントで「多くの人に感動を与えるようなプレーをしたい」という言葉に聞き覚えはありませんか?
決まり文句、テンプレートのような語感になりつつあるこの言葉に、正直に本音を言うと「冷ややかに感じてしまう」ことがたまにあります。もちろん、ストレートに心にグッと届くときもある言葉なのですが、何故か発する人や場面、状況によって届き方が異なることが個人的には多く感じます。何故でしょうか。
1つ提起できるとすれば、私たち「視聴者」は勝敗という「結果」以上に頑張る姿やこの舞台に立つまでの経緯、いわゆる「過程(プロセス)」に心を揺さぶられるからではないか、と考えています。
話を戻します。「箱根駅伝」の良さとは、私見ではありますが、放送の随所や前後に描かれるストーリー性やドラマ性にあるとおもっています。脚光を浴びている各区にエントリーした10名の選手だけでなく、エントリーされなかった給水担当や昨年はレギュラーだったにもかかわらず今年は本番までに調子を戻すことができなかった選手、怪我に悩まされている選手など、それぞれの選手にそれぞれの頑張る姿があり、非常にドラマチックに描かれて我々に届けられます。
本番一発勝負の大舞台で誰も結果を予想できない緊迫した試合展開、そこで十二分に実力を発揮できるよう努力を重ねてきた各選手の懸命な姿には、勝敗を超えた心を動かす感動があるからこそ、「箱根駅伝」という作品に浸ってみたくなるのではないでしょうか。
箱根や甲子園、国立、花園、オリンピックなど夢舞台が限られていればいるほど、人はひたむきに努力を重ねられること。誰かに教わったわけではありませんが、私たちは様々なジャンル、出来事に触れてきているから、自然とスポーツは「頑張っている姿の可視性が高いこと」を実体験の有無を問わず「経験値」として積み重ねて過ごしてきています。
大人になると涙腺が弱まる、といった言葉もよく耳にしますが、これは身体の衰えではなく、経験値が高まったこと、感受性の引き出しが多くなったことに起因して、「感動」モノに結びつけやすくなったように感じます。
コロナ禍で多くの人々が不安を抱えながら、日々を過ごしています。
感動はエネルギーの源泉です。大切な自分の周りにいる人たちのために勉強や趣味、何でもよいです。ひたむきに取り組むあなたの姿は、大切な誰かのために感動や勇気を与えることができるかもしれませんね。
「箱根駅伝」でココロだけではなくカラダも動かされた私は、散歩のつもりが思わずジョギングに。スポーツによる感動はどうやらエンジンにもなるようです。
1つのことを成し遂げたあとに出てくる感謝の言葉ほど、心にグッと届くメッセージはないと思うことがありました。今年、社会現象とも言える人気を博した漫画『鬼滅の刃』の最終巻となる第23巻が2020年12月4日(金)に発売されました。この日、集英社は最終巻の発売とコミックス累計発行部数1億部突破を記念して全国紙(産経/朝日/読売/日本経済/毎日)に全面広告各紙4面掲載するという類例のない、インパクトある広告をおこないました。掲載された4面のうち3面には同作に登場するキャラクター3人が登場し、作中で語った印象的なセリフとともに、「夜は明ける。想(おも)いは不滅。」というコピーが添えられていました。また、残り1面には全国紙5紙共通で、作者の吾峠さんから「応援してくださった皆さま、本当にありがとうございます。たくさんの方に助けていただき、支えていただきました。皆さまの歩く道が幾久しく健やかで、幸多からんことを心から願っております」というメッセージが寄せられていました。
最終巻が発売される時点では、既に日本中を席巻するほど『鬼滅の刃』は知れ渡っていましたので、この広告自体の目的はさらなる売上を目指したPRではなく、作者の吾峠さんの「素直な感謝」を日本中の皆さんに伝えるための「場」としてあるのだと私は感じました。
私自身、この「素直な感謝」に触れる機会が年に必ず1度あります。それは、現在指導に携わっているサッカー部の最高学年の選手が引退する日(引退試合等を開催する日)です。
学生スポーツの場合、どうしても定期的にステージの終わりを迎えてしまうため、一時的な場合もありますが、ピリオドを打つ日が訪れます。
引退試合の日は、試合そのもの以上に、その後のセレモニー(選手一人ひとりの想いを伝える場面など)に言葉にできない感激が生まれます。
活動中は様々な想いを巡らせながら、賢明にひたむきに努力し続けている彼らがようやく立ち止まることができ、振り返ったとき口からこぼれる想いは、純粋すぎるほどの「感謝」にあふれています。
まるで走馬灯のように支えられてきた方々の顔が思い浮かび、その人たちによって活動を続けることができたことに対する「素直な感謝」は、もちろんどんな経験を通じても生まれるものではありますが、私はスポーツを通じて出てくる言葉ほど揺さぶられるものを知らないです。
「感謝」なくしてスポーツは成り立ちません。いい記録を出した時に伝えたい人、喜びを分かち合いたい人がいるからこそモチベーションに繋がります。
マラソンランナーは孤独に映ります。走っている本人ですら、孤独を感じることがあるほどです。でも、皆さんは本当に孤独ですか?一人で走ってきましたか?
その踏み出した一歩は決して自分だけの力で踏みしめているものではなく、支えてくれた人がいたからこそ出た一歩ではないでしょうか?
暗い話が多い今の時世に、地道に進めばいつかは明るい未来があることを伝えてくれる、「夜は明ける。想(おも)いは不滅。」というメッセージは、マラソンに通じるものを感じませんか、と問うのは少し強引でしょうか。
最後に、かくいう私もこの広告に感化され、このような考えの作者が書いている作品はぜひ読みたいと思い、『鬼滅の刃』を買ってしまいました。
これはこれで思いっきり広告宣伝効果を受けているのですが、きっかけはさておき、素敵な作品に触れる機会となったことには「素直に感謝」しています。
皆さんは「スポーツ」という言葉からどのような印象を受けますか?
健康的、爽やか、楽しい…など明るい印象を思い描く人が多いのではないでしょうか。
2年前、私が勤めている追手門学院大学経営学部のオープンキャンパス(高校生に大学を見てもらい、進学の参考としてもらうイベント)において、ガンバ大阪の社長としてガンバ黄金時代の礎を築き上げた経営者としてのキャリアをお持ちの金森教授(当時)に登壇いただき、高校生に向けて「スポーツマネジメント」の講義をおこなう機会がありました。
その講義の中で、金森先生は黒板に大きく「スポーツは○○と□□を与える」と書いた後、参加している高校生に対して「○○と□□に当てはまる言葉はなんだと思う?」と次々に問いかけていきました。皆さんならどのように答えますか?
高校生からは「勇気と希望」や「団結と喜び」など様々な回答がありました。程よいあどけなさを感じるポジティブな言葉が並んだこともあり、授業参観をしている保護者のような気持ちで様子を眺めていました。ひと通り尋ねたあと、金森先生が○○と□□に当てはめた言葉は「喜びと苦痛」でした。その板書を見て、ぞわぞわと鳥肌が立ったことをいまでも鮮明に覚えています。
私自身も選手として、指導者として様々な競技に携わってきましたが、「喜びと苦痛、どっちが多かった?」と聞かれると、明らかに苦痛のほうが多かった、と即答できます。マラソンランナーの皆さんのみならず、スポーツに打ち込んだことがある人のほとんどは、私と同じ回答になるのではないでしょうか。
そして、その思いは選手としてそのスポーツを行っている自分自身だけではなく、その姿を応援する人にも当てはまるような気がします。
私が現在顧問を務めるサッカー部の部員は約70名。サッカーは11人の選手がピッチに立つ競技ですから、チームの代表として試合に出場できるのは一握り。どれだけの努力を重ねても、ベンチに入れず、大会ではスタンドから大きな声で仲間たちに声援を送る部員はどうしても出てきてしまいます。そして、その部員にはもちろん、その努力を陰ながら支えてきた家族がいます。毎年、このような非情な場面を幾度となく目の当たりにしていますが、こういった「苦痛」があるからこそ、スポーツを通じて得た「喜び」は何ものにも代えることができない高揚感を生み、自分自身が納得できる成長を感じられるものなのかもしれません。
スポーツは不思議です。「苦痛」の絶対量が明らかに多いにもかかわらず、その「苦痛」があったからこそ、いまの自分があったり、より成長・進化できたり、一生の宝物になる経験をすることができます。
なぜかマイナス面ばかりに目がいかない、何事もプラスに転じてしまう「スポーツ」は偉大ですね。
最近、「スポーツをストレスなく行えることは幸せなこと」だと認識する機会がありました。
私は約15年前から追手門学院大学体育会男子サッカー部の顧問をしています。今年度はコロナ禍の影響で、練習ができないだけではなく、学生サッカーにとって最も重要な関西学生リーグ前期日程が中止になるなど未曾有の事態の連続でした。
9月に入り、関西学生リーグ後期日程は開催することとなり、ようやく学生サッカー界も活気を取り戻す契機になると思った矢先、今度は試合をできる場所が確保できない、という大きな問題に直面しています。学生サッカーの公式戦の多くは連盟に所属している各大学のグラウンドを使用することが多く、各大学の協力の下、リーグ戦などが成り立っているのですが、今季は多くの大学が他大学を招いての対外試合を禁止しています。追手門学院大学も感染拡大防止の観点から、他大学の学生等の入構を制限しており、試合会場としてグラウンドを提供することが叶いません。顧問として非常に歯がゆい想いをしています。
最近、ランニングやサイクリングといったスポーツが再注目されているのは、時間や場所に関する制約が他のスポーツと比べて少なく、自分で環境を整えることができる、コントロールできる点が大きく影響しているのではないか、と感じています。テレワークの浸透にともない、自分でコントロールできない環境や制約(出勤時間や会社での座席など)が薄れ、自分自身をマネジメントする機会が増えたことから、自由意志が強く働くスポーツに人気が出ていると思うのは考えすぎでしょうか?
再注目され、ブームに乗っかっているようですが、私自身も最近ランニングをはじめ(正確には再開し)、カラダを自由に動かすことに小さな幸せを感じているところです。が、走っている最中や走り終えて間もなくカラダのどこかに痛みを感じることが多くあります。特にひざや足首に痛みが出ることが多く、歳のせいだ、と悲しくも言い聞かせていました。
そのような中、還暦を過ぎた知人に会う機会がありました。その方は、今でも180度近い開脚ができ、腰痛もなく、健康状態も非常に良好とのことだったので、その秘訣をうかがったところ、私が昔言っていた「教え」を忠実に守り続けた結果だ、と言うのです。
私は以前、住んでいる地区の子どもたちに走り方の指導をおこなっていたことがありました。そのときに繰り返し伝えていたことが「ストレッチを大事にすること」でした。知人との話から当時つけていたメモの存在を思い出し、収納箱から引っ張り出すと、そこには「反動をつけずゆっくり」「痛く感じず、筋肉が気持ちよく伸びているところで20秒程度」「息を止めず、リラックス(自然な呼吸で)」「身体を温めてから(軽いジョギング・入浴後等)」「人と争わない(自分で目標を設定)」と、5つのポイントが書かれていました。指導する立場にあった者が、すっかりそんなことを忘れ、柔軟性を失い、ひざの痛みにうなだれる一方、継続は力なりと言わんばかりに柔軟性を維持し、スポーツに限らず豊かな生活を送る知人に感服するばかりでした。
スポーツ、運動は人々のこころを豊かにする活動の1つです。その活動を支えるのは運動をおこなうための環境と資本となるカラダです。自由にのびのびと運動をするための環境やカラダが凝り固まってしまっては、豊かになるための活動でかえってストレスを感じてしまいます。コロナ禍を通じて、自発的な活動で柔軟性を維持・向上できるカラダと違って、運動をおこなう環境はなかなか柔軟性の担保がしにくいことに気づかされました。環境に嘆くことなく、運動を楽しむことができる日々が一日でも早く戻ってくることを祈るばかりです。
7月下旬、大学のグラウンドでサッカー部の練習が再開しました。4月からオンラインでの講義が中心となり、大学で学生に会うことがほとんどなく、約5か月ぶりに再会することができました。学生のいない、静けさの漂う大学は違和感だらけ。綺麗なキャンパス、静穏な環境で執務に没頭できる日々よりも、学生の元気な姿が所狭しと見かけることができる日常の尊さに、言葉で表すことができない感情がこみあげ、心が豊かになっていく感覚に浸りました。豊かさは、「モノ」ではなく「気持ち」で満たされるものだと再認識しました。
私の前向きな姿勢とは対照的に、大学生は前途多難です。世界経済のV字回復は困難な状態で、4月から6月のアメリカGDPは32.9%の減少と、衝撃的な数字が出ています。大学教員の立場で気になることは学生たちの就職活動ですが、厳しい時代になることが予想されます。
今年の4年生は、多くが3年生の早い時期からインターンシップという名目で就職活動がスタートしていました。コロナの影響で突然環境が悪化したと思われていますが、実は2019年夏頃から米中貿易摩擦の問題などに起因して、景気に陰りが見えていたような印象があります。そのような中、新型コロナウイルス感染拡大防止にともない、就職活動に制限がかかり、就職活動(インターンシップ)に注力していた学生はオンライン面談などで早々に内定が出る一方、3月頃から本格的に頑張ろうと考えていた学生は、入口すら閉ざされた状況に陥ってしまいました。その後7月に入り採用活動は再開し始めたものの、内定獲得状況は二極化している印象を受けます。現在の3年生は過去の情報が参考にできない状況で、大きな不安を抱えながら、企業の採用活動(インターンシップ)に参加し始めています。
2021年3月決算予想では、多くの企業で大幅な減益もしくは赤字が見込まれます。企業にとっては厳しい状況下ではありますが、人材確保は企業の生命線と考え、採用数は減らさないでほしいと心より願っています。
ただ、もしかしたら、就職活動のことを気にして病んでいるのは私だけかもしれないと錯覚してしまうほど、私の研究室からよく見える大学グラウンドで課外活動に取り組んでいる学生の姿は、輝かしい笑顔であふれかえっています。
グラウンドで動いている学生たちをみているとつい動きたくなり、ランニングシューズを履いてこっそりトレーニングを始めました。予想以上に体は重いのですが、動ける幸せを感じています。学生たちは、おじさんの私にはわからなかった本当の幸せを知っていたようです。
自分の住んでいる街を散歩したりランニングしたりすることで、小さいながらも、本当の幸せを感じてみてはいかがでしょうか。
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